観てきた。しんぼるというのは男性器、小便小僧のちんちんのことを指している。
たぶん前作がカンヌで総スカンだったから、レギュレーションをかなり変えてきたのかも。「松本が考えるカンヌ受けする映画」みたいな(ちなみに前作の大日本人は観ていない)。「ああ、僕のハイブロウについて来れなかったのね。じゃあ君らレベルの分かりやすい映画に今度はしてあげるよ」そう認識したのかも?松本人志は。
「突然なにも無い真っ白な四角い空間に主人公(松本)がいる」というシチュエーションで始まる訳です。CUBEみたく。そしてメキシコのルチャリブレみたいな話が同時進行する。
とにかくつまんなかった。90分間が苦痛だった。
松本もたけしも映画興行成績的には散々じゃない?つまり普段は如何に安い客ばかりを相手にしてるかってハナシ。
彼らのファンは映画など観ない。どうせ本も読まない。美術館にも行かないし、単館上映する文化的な映画の類いなど、まずチェックしない。ラーメンやパチンコ、サラ金のキャッシュディスペンサーのお得意様あたりが、たぶん松本の主な顧客。
そういう「貧しい感性な人達のささやかな文化的向上心に対するくすぐり」が、松本人志のお笑いだ。
※どうせ誰も見てない、なみえ部だからモチベーションが上がらない。もし反応があれば続きを書くよ。
追加:
あと松本の「ヨソ行きな気取り」とかも気になった(コレはたけしの映画にも感じる)。
「ハイソな映画世界に自分も入れて欲しい」そんな物欲しげな媚びみたいなモノを感じる。例えば「文化人的に振る舞いたい恵俊彰が自己演出の時にかける、あの気取りメガネの卑しさ」と同質な。
お笑いがアウェイな映画の世界に行く場合に取る態度は二種類ある。「あくまで映画の作法にのっとって真っ当に映画を撮る」そして「映画の作法など完全に無視し、あくまで自分のやり方を貫く」だ。
松本は一見後者を選んでるようだが、そこまで覚悟が決められていない。やはり不安で映画の型に頼っている。後半は極めて映画的な作法でまとめてしまった(SUKEBENINGENの印象では)。
世の中には「シロウトの方が知識が無い分より型破りな作品を作れる」という変な信仰がある。でも実際にはそうでは無い。既存の手法への強い批判というのを持ってない為、すぐ(不安心から)在り来たりな安全牌で体裁を繕うことに安心しがち。
例外はシロウトと馬鹿がセットになった時だけ。そしてソレは批評家がネタとしてあくまで評価をしてるだけだ(正統派への警鐘、カウンターとして)。
一番ダメなのが松本やたけしみたく小利口で恥を掻くことを恐れてるヤツ。コレが一番につまらない。
来月の7/23日には短編集「脳酸球」も出るみたいだよ。
ダウンタウンが評価されてる理由が分かりません。ぶっちゃけ全然面白くないです。
「この人ならそんな自分の疑問に答えてくれるんじゃないか?」そう思った幾人かに聞いてみたけど、あまり納得する答えが貰えなかったので、ココを読んでる不特定多数(の中にいるであろうお笑いマニア)を頼りにきた次第です。
まぁ正直言うと自分の中である程度の答えは既に出ていて、その証拠が欲しいだけなんですけどね。
松本人志が監督した「大日本人」がカンヌで大不評だったのがもう証明してると思う。コイツが紛いモンだという事を。(痛いファンが「彼らには高度過ぎて理解出来なかったんだ」など寝言を言うけど、モンティパイソンみたくハイブロウな笑いを許容する彼らが理解出来ないなんてケースは少し考えにくいです。)
それと以前タワーレコードでごっつええ感じのDVDが発売された頃、店内モニターで流れているごっつを「腕組みしながら難しそうな顔で熱心に観ている(普段タワーレコードで見かけないような)モサい人たち」がよくいたんです。
「ははぁ〜ん、松ちゃんそうきたか!」「う〜ん今のネタは自分には分かるけど、一般人には少し難し過ぎるんじゃないかなぁ〜?」などとアイツら、もう周りに聞こえがしにず〜っと独り言してるんです。
どうせそんな奴らばかりなんでしょ?ダウンタウンファンて。
自分が太田光をテレビで見ていて面白いなと思うのは「お笑い芸人なのに笑いを否定するところ」です。シャレにならない事を平気でやる。周りが引きつっているのを横目で見ながら涼しい顔で更に被せていく。
所詮はどんなに暴れても最後には笑いという安全圏に落とし込むような「予定調和で一番つまらない事」を確信犯的に回避しているのが面白いのです。ソレが分からない人にはたぶん「不愉快極まりない、非常識なお笑い芸人」に見えるのだと思います。
笑いの「フレーム」というものが有ります。フレームの中が「笑いだと認識されているもの」です。この中でより面白いものを見つけるというルールでみんなが競っている訳です。でもそこで一番面白いものを探している時点で、もう負けです。
本当に面白い人は「そのルールを壊して変えてしまう人」です。別に一言も面白い事は言わなくてもいいのです。まずその発想に殆どの人がたどり着けません。
「フレームの外からフレームを眺める視点を持つ」という事が大事な訳です。ビートたけしや立川談志あたりがソレに最初に気付いた人になると思います。
でもココで終わりではありません。更に進むと「フレームの外から眺めているというフレーム」にさえも気付くのです。多分このあたりにいるのが太田光やラーメンズなのだと思います。
フレームの存在に気付けないで最初のルールを疑わずに、ただソレを盲信し続けているような人には「ルール破りのデタラメ」にしか見えない訳です。声を出してゲラゲラ笑ったその分量がすべてだと思い込んでいるのだと思います。
でも実は本当に面白いことというのは「全く笑えないようなモノ」なのです。
現代的な笑いというのが誕生したのは「モンティ・パイソン」からです。モンティ・パイソンのやった事を一言で言えば、「それまで積み上げられてきた笑いのルールを全て否定し、完全に破壊し尽くしたこと」です。
「そんなものは最初から存在しなかった。ただのイリュージョンに過ぎない」そう彼等がハッキリと死亡宣告してくれた訳です。
だからそれ以降の笑いは「モンティ・パイソンへの回答」でなければなりません。そして、そのやり方は二つだけです。
一つは「更にイリュージョンを暴く」といった方法。「虚構でしかない笑いを掌に乗せて嘲笑っているモンティ・パイソンを、更に掌に乗せて嘲笑う」というやり方です。
もう一つは「イリュージョンにしか過ぎないお笑いに、新しい意味付けをする」という方法。既に無意味な事が分かっている行為を敢えてやる、その「理由」を見つけるという事です。
この「現代的な笑いの大前提」すら理解していないようなお笑い芸人など、絶対に自分は認めません。「お笑い舐めるな!」と言ってやりたいです(素人だけど)。そして、この最低条件さえも満たしていないお笑い芸人が殆どだと思います。(仮にこの事を理解していたとしても、テレビでこれらのお笑いをやる事はほぼ不可能だから、それを理由に自分達のヌルさを正当化している)
言い訳をしても良いのは「上記のどちらかを実践した上でテレビ向けにクオリティーを落とした場合」のみです。完璧な解答を書いてから、後でギリギリ及第点になるよう消しゴムで消した場合のみです。
「どれぐらい消したのか」は見える人には見えます。水面上に見える氷山の一角で全体の大きさは十分に計れます。
そしてこれらを実践しているのは、自分が見た所ではラーメンズぐらいです。(なんだかラーメンズ信者に自分がなったみたいで嫌だけど、事実そうなのだから仕方無いです。ラーメンズがどうというよりも他がまるでダメ過ぎるのだと思う。受け手側からして、ダウンタウンや伊集院光でルサンチマンを晴らしている人達がトップにいる、なんともお寒い状況だから)
補足:「もし、お前が言うような理屈っぽいお笑い芸人ばかりになったら、あまりにも殺伐とし過ぎてたぶん息苦しいと思うよ」みたいな意見もあると思います。(「確かにそうかもしれない」と感じたりはします)
だから更に、その殺伐さ加減を上手く和らげる「疑似イリュージョン的な要素」もロジカルに付け加える必要があるのだと思います。
小島よしおは「一発ネタ芸人」みたいに思われることで上手く視聴者の警戒心というのを解いている。
あの「ムカつき芸」には結構細かいテクニックが鏤められている。みんなが想像している以上に、実は計算高い。後輪で轢くタイプ。
一発ネタのキャラ芸人は出オチ。テレビというメディア向け。
エンタの神様に出てくるのは「売れ残りを加工しただけの、スーパーのお惣菜芸人」ばかりだから、つい「キワモノ芸」としてそのジャンルごと低く見てしまいがち。
だけども、本当に面白い芸人というのは大抵セルフプロデュースにも長けている。そして既存の笑いにある「笑いを仕掛ける段取りの致命的なまどろっこしさ」という問題点にさえ、もうとっくの昔に気が付いている。
だからほぼワントラップでシュートを狙える「キャラ芸」というジャンルに価値を見出して、そして自ら進んで入っていくのだ。
ただその目論みが成功して人気者になってからが難しい。
大抵は詰まらないひな壇芸人になり下がり、そのままフェードアウトしていく。
最初から詰まらない、先輩芸人に取り入るのが上手いだけのバーター芸人(びびるの大木とか)の方がむしろ生き残り易い。
存在が「完全な空気」なので画面の端々に映っても違和感がない。誰も関心など無いし、意識さえしない。
だけど、なまじ面白かった芸人が大人しく後ろで座っている様子を見ると「飼い殺し」されている様で、ひどく心苦しくなるのだ。
つまり売れるまでは面白い方が有利だけど、売れてからは詰まらない方が有利だという事。